有田焼 林九郎窯 花鳥山水 珈琲碗皿
日本磁器発祥の地と言われる、日本を代表する陶磁器工芸品「有田焼」の珈琲碗皿。
有田焼を代表する、林九郎窯の作品です。
「林九郎窯」は、古伊万里の伝統デザインを現代に引き継ぐ有田焼を代表する窯元。
古伊万里の伝統とモダンなスタイルが融合された美しい工芸品を生み出しています。
高貴で気品溢れる古伊万里の美しさをよく表現しています。
有田からヨーロッパへ渡り、世界を変え、時代に君臨した優美で華麗な姿の古伊万里のスタイル。
1650年に、オランダの東インド会社が有田焼を買い付けた背景もあり、古伊万里はヨーロッパの王侯貴族を中心に広がりました。
有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために、有田焼は通称「伊万里焼」或いは「伊万里」と呼ばれるようになりました。
これが有田焼が伊万里焼と呼ばれる由縁。
ヨーロッパでの古伊万里は、それ自体を愛でるというより、宮殿を装飾するインテリアとして用いられていました。
西欧貴族にとって古伊万里は金銀財宝と同じ価値を持つ富と権力の象徴でした。
王侯貴族や裕福な商人は、東洋貿易の中心であるオランダ船が入港するアムステルダムに陶磁器専門の買付代理人を置き、争って磁器を買ったそうです。
購入した伊万里焼を「磁器の間」を設けては、壁面を埋め尽くすように床から天井に至るまで磁器を展示しました。
この棚を「ポーセレン・キャビネット」と言い、来訪客に自らの権力・財力を誇示したのです。
特に、古伊万里にとって重要なパトロンだったのがドイツの貴族たちです。
ドイツのザクセン選帝侯アウグスト2世が、何とかして伊万里に近い焼き物を作らせようと、錬金術師ベドガーに白磁器を作ることを命じました。
こうして生まれたのが、ドイツの名陶「マイセン」です。
林九郎窯の有田焼は、本物の古伊万里をお手本とした、本格的な古伊万里様式です。
欧州の王侯貴族に「オールドイマリ」と呼ばれ愛されていたデザインを復活。
赤や金を中心に、最大36色を使う絢爛豪華さ。
花鳥風月を優美に描く繊細なタッチ。
本物を欧米から里帰りさせ、見つめ続けてきたデザインと雰囲気が、凝縮されています。
溢れ出す華やかさと高級感。和洋折衷な美しさと気品と豪華さを併せ持った美しい陶磁器です。
日本磁器発祥の地、有田焼
有田焼とは、現在の有田町やその周辺で生産された磁器の総称で、江戸時代には、有田皿山で作られた製品が伊万里港から積み出されたために「伊万里焼」または「伊万里」と呼ばれました。豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した文禄の役(1592)・慶長の役(1597)の後、朝鮮半島から多くの陶工達が渡来、彼らによって日本の各地で次々と開窯されました。
とくに有田では17世紀初頭に有田泉山で良質の磁器原料が発見され、日本で最初に磁器が焼かれたところです。
その後、寛永14年(1637)に鍋島藩が伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、現在に知られている有田皿山の体制を整えていったのです。
林九郎窯
古伊万里浪漫を追い求めて17世紀に海を渡り、世界を魅了した古伊万里。
古伊万里の技術は、元禄時代に頂点に達します。この時代、染付を施した素地に金箔や金泥で文様を描く金襴手がもてはやされ、日本独特の文様が器を飾り、世界の人々を魅了しました。
林九郎窯ではその時代の古伊万里の美を追い求めて、古伊万里独特のデザインを現代に蘇らせました。